大阪の人は太閤さんが大好き。太閤さんというのは豊臣秀吉のこと。なので、豊臣家を滅ぼした徳川家康に好感はもてないようだ。豊臣家と徳川家の戦いといえば「関ケ原の戦い」が有名だが、徳川家康が豊臣家をほんとうに滅ぼしたのは「大坂冬の陣・夏の陣」。関ケ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となった徳川家康は、1614年の「大坂冬の陣」と1615年の「大坂夏の陣」の2度の合戦で、豊臣家を滅亡させた。
冬の陣では、家康が秀頼の存在を危険視し、「方広寺鐘銘事件」を口実に開戦。方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼が建て直した方広寺の鐘に彫られた「国家安康」「君臣豊楽」という文字をめぐって、徳川家康が「俺の名前を引き裂いて呪っている」といちゃもんをつけた、有名なできごとのこと。徳川軍が大坂城を包囲し、和議が成立したものの大坂城の堀が埋め立てられ、豊臣家の防御力は著しく低下した。
翌年の夏の陣では、和議が反故にされ、家康は豊臣家を完全に滅ぼすべく再戦に臨み、真田信繁(幸村)らの奮戦も虚しく、大坂城は落城。秀頼と淀殿が自害し、豊臣家は滅亡した。
戦国時代の話なんて遠い昔のことに感じられるが、街なかには合戦の記憶が至るところに残っている。冬の陣では大阪市内のさまざまなエリアで激しい野戦が繰り広げられ、その激戦の一つが城東区を主戦場とした「鴫野・今福の戦い」。

鴫野と今福は、大坂城の東側を守っていた砦。この2つの砦を陥落しなければ、本格的に大坂城を攻められなかったため、家康は上杉景勝と佐竹義宣に攻略を命令した。
上杉景勝が本陣を構えたのは、鴫野にある「八劔(やつるぎ)神社」の境内。八劔神社の境内には、本陣跡を示す石碑がひっそりと立てられている。
JRの高架線やにぎやかな商店街がすぐそばに広がるにもかかわらず、その境内に足を踏み入れると、都会の喧騒がまるで遠い世界の出来事のように感じられる静けさが漂っている。まるで、時がゆっくりと流れ、心が穏やかに溶け込むような特別な空間。


また、西隣にある城東小学校の正門横には、「鴫野古戦場碑」が立てられている。かなり古い碑で、歴史が感じられる。一方、佐竹義宣が本陣を構えたのは、蒲生にある「若宮八幡大神宮」の境内。こちらは鳥居横の目立つ場所に、本陣跡を示す石碑が堂々たる姿で立っている。
民家が立ち並ぶ景色の中、境内の敷居をまたぐ瞬間、まるで別世界への扉を開けたかのように、穏やかな空気が心に染みわたる。街の喧騒が遠ざかり、静寂が深く息づく特別な場所へと誘われている感じがする。


佐竹軍と豊臣軍が激しく戦った跡は、今福にもある。住宅街にある三郷橋稲荷大神の横には、「大坂冬の陣古戦場今福・蒲生の戦い跡の碑」が立てられている。
大坂冬の陣・夏の陣の足跡は、遠い歴史の中だけにあるのではない。今回ご紹介したように、大阪市内の住宅地や公園の片隅に、当時の激戦を物語る碑や解説板が、ひっそりと残されている。日常の風景の中に隠された戦国の痕跡を探す旅は、きっと歴史への新たな扉を開いてくれるはず。こんな豊臣家の歴史を感じられる場所で、戦国時代の足跡を辿りながら、過去のドラマに想いを馳せてみませんか?
- 住所:八劔神社&鴫野古戦場碑:大阪市城東区鴫野東3
- アクセス:八劔神社:大大阪メトロ今里筋線・JR学研都市線・大阪東線鴫野駅から徒歩6分
- 住所:若宮八幡大神宮:大阪市城東区蒲生4 / 今福・蒲生の戦い跡の碑:大阪市城東区今福西1
- アクセス:若宮八幡大神宮:大阪メトロ鶴見緑地線・今里筋線蒲生四丁目駅から徒歩4分 / 今福・蒲生の戦い跡の碑:大阪メトロ鶴見緑地線・今里筋線蒲生四丁目駅から徒歩4分